序論:広告とは何か、そして「近世」はなぜ特別なのか
今日、広告は私たちの視界に常に存在している。スマートフォンの画面を開けばデジタル広告が現れ、街には看板や掲示物が溢れ、テレビや動画配信サービスはスポンサーの存在抜きには成立し得ない。だが、この日常的な風景は、長い歴史の中ではむしろ極めて新しい現象である。
本稿では、近世ヨーロッパを中心に、印刷技術の発展と商業社会の成熟によって「近代広告」が成立していく過程を改めて丁寧に読み解く。そして同時期の日本の状況とも比較しながら、広告の歴史を立体的に理解することを目指す。
近世(主に16〜18世紀)は、技術革新・宗教改革・大航海時代・都市人口の増加・商業活動の活発化などが重なり、人びとの情報流通が劇的に変化した時代である。この「情報革命」が、広告を「商業文化の重要な制度」として成立させる土壌となった。
1|印刷技術の発明と広告の曙光
1-1|グーテンベルクの活字革命
広告史の出発点としてほぼ例外なく語られるのが、1445年前後、ヨハネス・グーテンベルクによる金属活字印刷技術の発明である。この技術は手書き写本に依存していた情報伝達の世界を根本的に変えた。
印刷技術は以下の点で革新的であった。
- 大量生産が可能
- 均質な品質の維持
- 低コスト化による情報アクセスの拡大
- 知識の流通速度の加速
- 教会・国家・商人など、多様な主体の情報発信が可能に
この「情報の可視化」「大量流通」は、後に広告が成立するための必須条件となる。
1-2|シキス(Siquis)広告の登場
15世紀末のイギリスには、壁に貼り出される「シキス(Siquis)」と呼ばれる広告が存在した。
これは「Si quis(もし誰か…)」で始まる手書きの告知文で、
- 道具・本の売買
- 失せ物の知らせ
- 職人や労働者の募集
など、今日のクラシファイド広告(求人・売買広告)に近い機能を持っていた。
印刷術が登場する前から広告的表現は存在したが、印刷技術はそれを飛躍的に拡大した。
1-3|カクストンと英語最初期の印刷広告
1480年頃、イギリスに印刷をもたらしたウィリアム・カクストンは、英語による最初期の印刷広告をロンドンの教会のドアに掲出した。
その内容は礼拝書の販売告知だが、注目すべきはその構造である。
- 商品の品質(誤りなく印刷)
- 購入場所の明示
- 価格の手頃さの訴求
- 「はがさないでください」といった注意書き
今日の広告にも通じる「基本的要素」がすでに存在している。
この広告は現在もイギリスに2枚現存しており、近世広告史の貴重な資料となっている。
2|新聞の誕生と広告メディアの成立
2-1|新聞という「定期メディア」の出現
17世紀は、ヨーロッパにおいて新聞が誕生した世紀である。
1609年、ドイツで世界最初期の新聞『Aviso』『Relation』が刊行された。
その後、パリでは1612年に『広告掲示の公共雑誌』が登場し、1620年にはイギリスで『Courante』が出版される。
新聞の登場が広告史に与えた影響は巨大である。
- 情報が定期的に流通する
- 読者層が徐々に形成
- 商人・職人が安定した広告媒体を得る
- 国家や教会も布令・布告を効率的に伝達可能に
つまり新聞は、広告の「流通基盤」を決定的に支える存在となった。
2-2|日本との時間差
日本が近代的な新聞を持つようになるのは1862年の『バタビヤ新聞』まで待たねばならず、ヨーロッパからは約250年のタイムラグがある。
そのため、広告・メディア環境の成熟度は構造的に異なり、近代日本の広告文化が急速に発展する背景には、この「遅れてきた近代」の事情が大きく影響した。
3|広告代理店の誕生と「Advertisement」の定着
3-1|世界最初期の広告代理店
17世紀はまた、広告代理店という新しいビジネスが現れた時代でもある。
- 1610年:イギリスで最初期の広告代理店
- 1612年:フランスでテオフラスト・ルノドーが「コックドール」を設立
広告代理店は単なる仲介業ではなく、
- 掲載スペースの売買
- 情報収集
- 記事と広告の区別の整備
- クライアントの意図を文章化する専門知識の蓄積
を担うことで、近代広告システムの基礎を築いた。
3-2|「Advertisement」という言葉の成立
1645年、『The Weekly Account』紙で、見出しに「Several Advertisements」が使用される。
これ以前は「advertise」は「注意を喚起する」という意味が強かったが、この時期から商業的告知としての意味を帯び始めた。
ここにようやく、今日につながる「広告」という概念が確立したと言える。
4|17世紀後半の広告と商業文化
4-1|食品広告の登場
1675年の『Public Advice』紙には、コーヒーを販売する広告が登場する。
そこには「効能」が多数列挙され、薬効アピールが目立つ。
近代の健康食品広告の原型とも言える。
4-2|同時期の日本:看板文化と引札
日本では、まだ新聞こそなかったが、看板文化が発達し、
- 吉原
- 千住宿
- 呉服屋(越後屋=のちの三越)
などが派手な看板競争を行っていた。
1682年には看板の過度な装飾を禁じる法令が出るほどである。
また、日本独自の広告である引札(ひきふだ)が登場。
これは今日のチラシ広告に近い存在で、商業都市・江戸の消費文化を支えた。
5|広告課税と広告批判
5-1|18世紀イギリスの広告課税
広告が普及すると、国家は財源として広告課税を行うようになる。
1712年にイギリスで新聞・新聞広告への課税が導入された。
広告1件につき1シリングという固定税である。
これに対し、印刷業者・商人・政治家の間で議論が沸き起こり、広告課税はしばしば言論・表現の自由とも絡めて批判された。
5-2|アディスンによる広告技法の分析
ジョゼフ・アディスンは『タトラー』紙で、広告の工夫について次のように述べた。
- 目を引く技術が重要
- NB(Nota Bene)など注意喚起の記号
- 小さな挿絵(カット)が有効
- イタリック体の効果
彼の議論は今日のマーケティング理論の基礎概念「AIDMAモデル」に通じる先駆的洞察である。
5-3|ジョンソンによる広告批判
サミュエル・ジョンソンは広告が大量化することで「約束ばかりが肥大化し、誇張が増える」と批判した。
広告はすでにこの時点で、
「情報」「誇張」「誘惑」「詐術」の境界を揺さぶる社会的存在
となっていたことが分かる。
6|広告表現の発展と産業革命
6-1|18世紀の広告画家
ホガースやクラークソンなど、広告制作を専門とする画家が登場した。
芸術と広告が接続する時代が始まる。
6-2|日本の平賀源内:国産広告文化の祖
1769年、平賀源内は歯磨き粉のブランド名を「欺石香」と命名し、キャッチコピーを書いたとされている。これは日本におけるコピーライター的行為の最古の事例で、このことからも、源内は商才とメディア感覚に優れた人物であったことから可能であった。
7|19世紀:本格的広告産業の花
7-1|新聞発行部数の爆発的増加
19世紀のイギリスでは、
- 都市人口の増加
- 教育の普及
- 産業革命による生活水準向上
により、新聞が大衆メディア化した。
『The Times』紙は1815年の約5000部から、1854年には5万部を突破する。
7-2|広告税の廃止と広告の増大
広告税は、メディア産業の拡大に影響を及ぼしたため、1851年のロンドン万博を契機に廃止された。
これにより広告が爆発的に増加し、広告産業は近代的発展を遂げる。
7-3|有名広告:ワーレンの靴墨広告
靴に映り込んだ自分の姿に驚く猫の絵が添えられた広告は、20年以上にわたりイギリス全土で掲載され、「イラスト広告」の象徴的存在となった。
ここに、広告が「視覚文化」と結びつく本格的な段階へと進んだことが見て取れる。
8|近世広告史の意義
本稿で見てきた通り、広告の発展は以下の要因が重なり合って進んだ。
- 技術革新(印刷・新聞)
- 都市化と商業社会の拡大
- メディアの制度化(新聞・代理店)
- 社会規制(広告税)と批判の存在
- 視覚文化・大衆文化の成熟
近世は、広告が単なる「個々の告知」から、社会を動かす力を持つ制度的存在へと変貌する転換点であった。
また、ヨーロッパと日本には200年以上のタイムラグが存在したが、その後日本は急速に追いつき、独自の広告文化(看板・引札・浮世絵商業版画)を発展させた。
広告は単なる技術ではなく、
社会構造・文化・政治・経済が絡み合って形成される複合的現象
であることが、改めて理解できるだろう。
