アメリカ広告史から日本の近代広告へ
アメリカ広告史から日本の近代広告へ

―メディアの誕生と商業社会のダイナミズムをめぐる通史的考察―

1|アメリカ広告文化の起源

アメリカの広告史を語るとき、その起源はしばしば 1620 年のメイフラワー号にまで遡る。信仰の自由を求めた 102 名の清教徒(Pilgrim Fathers)は、ヨーロッパから新大陸へと旅立ったが、その旅路とともに「紙メディア文化」も運び込まれた。看板、新聞、広告ビラ──これらは当時のヨーロッパ社会で成立していた情報流通の基盤であり、アメリカ社会におけるメディア文化の最初期を形成した。

当時のアメリカ社会は、今日のように整備された都市を持たない開拓社会であったが、それでも人びとは「何がどこで売られているか」「どのような商品やサービスが存在するか」を知る必要があった。広告はその必要性に応える手段として、社会インフラの一部に組み込まれていったのである。

19 世紀に入ると、印刷技術の向上、産業の発展、そして都市化の進展によって、新聞を中心としたメディアが急成長していく。1833 年にはベンジャミン・デーが『ザ・サン(The Sun)』を創刊し、続く 1835 年にはジェームズ・ギャードン・ベネットが『ヘラルド(Herald)』を創刊した。印刷技術の改良とともに新聞の発行部数は急増し、『ザ・サン』は創刊わずか数年で 3 万部に達したと記録されている。

新聞の普及は、広告の発展を強力に後押しした。広告は単なる販売促進の手段ではなく、商品の存在を社会に可視化し、企業と消費者を結び付ける社会的装置として機能し始める。1840 年には、実に 1631 紙もの新聞が全米で発行されていた。この数字は、広告がすでに社会全体を支える重要な情報産業であったことを示している。

さらに 1851 年には、のちに世界的な権威紙となる『ニューヨーク・タイムズ(New York Times)』が創刊された。広告と報道のシステムはここからさらに成熟し、「アメリカ的広告文化」の基礎が築かれていく。

2|アメリカ広告界の象徴 ―P・T・バーナムの登場

19 世紀アメリカ広告史における特異な存在──それが P・T・バーナムである。バーナムは興行師であり、事業家であり、そして巧みな広告戦略家でもあった。彼は派手で奇抜な演出を用いて大衆の関心を集め、興行を成功させる「ショーマンシップ」の典型として語られる。

17 歳で雑貨店を経営しながら宝くじ販売を手がけたバーナムは、19 歳にして 1 日 500〜2000 ドルもの売り上げを叩き出し、アメリカで最初に宝くじ広告を大規模に展開した人物として知られる。その後は象の興行、巡回動物園、ハドソン川の蒸気船運航、ホテル事業、博物館経営など多角的に活動し、そのすべてで派手な宣伝手法を駆使した。

たとえば、彼の経営する「アメリカ博物館」では、わずか 18 インチのナイアガラの滝模型をポンプで循環させ、まるで本物の大瀑布であるかのように誇示して観客を呼び込んだ。また、黒人ヴァイオリン弾きの広告ビラをわざと逆さに貼り出し、通行人が気になって足を止める心理を利用した。

バーナムの手法は、今日の「体験型マーケティング」「ストーリーテリング広告」につながるものであり、「広告は単なる情報ではなく、人々の視線と感情を操作する技術である」という事実を象徴的に示している。

3|広告代理業の誕生と制度形成 ―パーマー、ローウェル、エヤー

現代的な広告代理店ビジネスの源流は 1841 年、アメリカにおいて誕生した。ジョン・L・フーパーとヴォルニー・B・パーマーが事業をスタートさせ、特にパーマーは「広告代理業の始祖」として知られる。

パーマーは父親が発行していた新聞『ミラー(Mirror)』の広告勧誘を行うなかで、広告主に対する見積もり、文案作成などのサービスを無料で提供し、媒体側である新聞社から広告料の 25%を手数料として受け取る「コミッション制度(commission system)」を確立した。この制度は今日まで受け継がれている。

続くローウェルは、新聞枠を大量に買い上げて広告主に売る「スペース卸売り(space wholesaling)」を導入し、現金割引制度の基盤をつくった。この手法は媒体と広告代理店の関係を大きく変化させ、広告産業の商業的安定化に貢献した。

さらにエヤー(N.W. Ayer & Son)は、広告代理業を「広告主のための専門サービス業」として確立し、公開契約制度を導入し業界の不透明さを排した。特にエヤーは市場調査を広告活動に組み込むという革新的手法を導入し、現代マーケティングの基礎を築いた。

19 世紀末には J.ウォルター・トンプソン(JWT)も登場し、広告代理業は完全な産業へと成長した。1922 年のアメリカでは、約 1200 社の代理店が存在し、ニューヨークだけで 385 社が活動していた。

4|日本における広告文化の幕開け

一方、日本では、19 世紀は江戸から明治への激動期であった。1842 年頃には技巧を凝らした派手な看板が各地で掲げられたが、あまりの過熱ぶりに幕府が禁令を出したほどである。これが近世日本の広告文化の初期形態であった。

日本最初の新聞とされる『バタビヤ新聞』(1862 年)は、オランダ領バタビア新聞の翻訳で、印刷も木版であったが、これを契機に紙メディア社会が胎動し始める。そして 1867 年には『万国新聞』に日本初の新聞広告が掲載され、同年には日本初の雑誌『西洋雑誌』が誕生した。イギリスからは実に 250 年の遅れであったが、日本における近代広告の第一歩である。

5|明治の文明開化と広告の近代化

1868 年の明治維新以降、日本は西洋化と近代化を急速に進める。新聞は次々に創刊され、『横浜毎日新聞』『東京日日新聞』『読売新聞』『朝日新聞』『時事新報』などが続々と登場した。新聞は政党からの財政的独立を図り、広告収入によって経営基盤を固めていく。

明治 10 年頃には広告収入の割合は 8.7%であったが、1890 年頃には約 30%に増加しており、広告が新聞経営を支える柱に成長したことがわかる。

同時期には、有名文士──尾崎紅葉、森鷗外、夏目漱石らが広告コピーを執筆するという独特の文化も生まれた。明治の知識人は「広告」を文学的創作の一部として扱い、広告表現に文化的厚みを与えたのである。

さらに 1901 年には京浜電車に車内広告が掲出され、広告媒体は新聞・雑誌から交通機関へと拡張した。今日の「トレインメディア」の源流である。

6|広告研究の萌芽―福沢諭吉「商人に告ぐ」の意義

1883 年、福沢諭吉は『時事新報』に「商人に告ぐ」を寄稿した。これは日本における広告技法論の嚆矢とされる名文である。

福沢は以下のような核心的主張を展開する。

  • 商売において最重要なのは「知られること」である。
  • 広告こそが最も効率よく広範囲に情報を伝える手段である。
  • 新聞広告はコストと到達範囲の両面で他の手法を圧倒する。
  • 広告は単発ではなく継続が命である──「一年三百六十日、最上の日は三百六十日」。
  • 広告文は名筆家に頼らず、誠実で要点を簡潔に書くべきである。

ここには 19 世紀アメリカの広告思想と通じる“情報社会の原則”が示されている。福沢は、日本の商人が広告の重要性を理解していないことを批判しながら、「広告を使いこなす者が近代社会の勝者となる」と喝破した。

この文章は、今日のマーケティング論から見ても本質的な洞察に満ちている。

7|広告とは何か、そしてなぜ社会を動かすのか

本稿で見てきたように、アメリカと日本の広告史は、単なる商業手段の発展史ではない。それは次のような社会変動の歴史と密接に連動している。

  • 新大陸の開拓と市場の創成
  • 新聞という大量情報媒体の誕生
  • 資本主義の発展と広告代理業の制度化
  • 都市化・消費社会化・大衆社会化
  • 情報の可視化をめぐる文化の変容

広告は、企業と消費者の情報ギャップを埋めるだけの仕組みではない。社会の価値観、制度、情報環境そのものを形作る「社会的な力」である。
バーナムが見せた“演出”も、エヤーが確立した“制度”も、福沢諭吉の“思想”も、すべては情報を通じて社会を動かす試みであった。

広告とは、「社会が自らを語る方法」であり、また「人間の欲望を言語化し、可視化する技術」でもある。その役割は近代初期も、今日のデジタル社会でも根本的には変わっていない。